○渡部委員 具体的に言いますと、たとえば輝宗なんかは、礼拜施設を持たないし、持つ必要もないのです。その礼拜施設のかわりに、一定の坐禪を組む場所があればそれでいいわけなんで、その場所は、必ずしも屋内であることが決定的な条件になるわけではないので、屋外であり得るかもしれない。屋外の場合は別としまして、一定の家屋があつて、そこが坐禪を組む場所になつている。
それから礼拜施設ということについては、私は反対であつたけれども、かりに礼拜施設というものが条件の中に入るとしましても、この礼拜施設というような規模については、何ら書かれていないのであつて、従つてどんな小さい礼拜施設があつても、それは当然礼拜施設の中に入るのである。
そういうことになりますと、先ほど薄井氏から話があつたように、原始仏教的なものにおいては、そういう礼拜施設というものを持たないのがむしろ原則的である、さらにそういう動きが日本の仏教界に非常に強くなつておるということがあり、またユニテリアンのような新教になりますと、これはやはり礼拜施設というものを少しも重視しておらない。
従いまして、ただいまの御質問に答える責任は私ございませんのですが、ただ私の感じから申し上げまして、この礼拜施設と申しますのは、宗教活動を行つておるという裏づけを意味するのではないか、回教におきましてもまた愛善苑等におきましても礼拜の施設は持つておりません。しかしながら礼拜いたしますのには、礼拜の場所というものがあるはずでございます。
○渡部委員 そういうふうな御理解であるならば、礼拜の施設というような形容詞のある規定を用いるということ自体の中に、将来具体的にそれが処理される場合に、誤解を生ずる憂いがあるのであつて、宗教の中心が礼拜であるというふうな考え方は、宗教の特質に関する一定の僻見的な規定になつてしまうのであつて、必ずしも礼拜施設を備えているのが、宗教の特質的なものであるというふうなものじやないと思うのです。
○篠原政府委員 ここの「礼拜の施設」という言葉は、われわれといたしましては、宗教一般の通性といたしまして、礼拜を中心にしておる関係で、礼拜という言葉を使つたわけなんでありますが、その宗教団体がもつぱらその活動のために使う施設でございますれば、おそらく礼拜施設といつた概念の中に入るのじやないかと私は思います。
従つて、たとえば天災地変とか、あるいは火災とかいうことで礼拜施設が一時焼け、そうして二年間それができなくても、そのできない事情がやむを得ない、しかもなおかつ当該団体が宗教活動を現実にやつておる、こういう向きのもの、たとえば隣の教会の会堂を借りてやつておるとか、あるいはほかの施設を利用してそれを持ち続けておるとか、こういう向きのものは、われわれの方では「やむを得ない事由がないのに」という事項にかけて、